昭和55年11月21日 朝の御理解



 御理解 第24節
 「人に誘われて、しょうことなしの信心は、つけ焼き刃の信心じゃ。つけ焼き刃の信心は取れやすいぞ。どうぞ、その身から打ちこんでの真の信心をせよ。世に勢信心ということを言うが、一人で持ちあがらぬ石でも、大勢かけ声で一度に力をそろえれば持ちあがる。ばらばらでは持ちあがらぬぞ。家内中、勢をそろえた信心をせよ。」

 家族勢を揃えた信心、なかなか難しいなかなか出来ません。家の中で一人が熱心に信心を頂いておりましても、一家中がいわゆる熱心という事ではない。神様の御都合といやそれまでですけれども。その身から打ち込んだ信心をせよと仰る。その身から打ち込んだ信心をさせて頂かねば、なかなか周囲の者もついて参りません。どうでもその身から打ち込んだ信心をさせて頂かなければ。例えば主人が信心をしておるなら、お父さんがあれ程の一途な信心をするのだからと、家内もついてこにゃおられないでしょう。
 親でも子でもその一途な打ち込んだ信心には、ついて来ずにはおられない、その身から打ち込んだ信心。私がまぁ一生懸命の修行の時分に、こりゃ段々信心に打ち込んでいけばいく程、段々困った状態になって来ましたし、両親がまぁ話し合っていろいろと話し合って結論は、けれどもあの人がまぁあれだけの信心しよるけんで、私どんもついていかにゃあでけんじゃないのというのが、まぁ両親が話を私の信心に没頭しますから、それを困った事だとやっぱ思うて話し合う。
 けれどもあれ程の打ち込みをしておるのじゃから、朝晩水垢離を取らせて頂きますから、そういう本当に水垢離取っておる子供の姿を思うたら、親もついて行かなきゃおられない。私の父は反対はしませんでしたけれども、教会にお参りするといったような事は私自身のそういう信心が出来る様になってから、親教会善導寺にお参りする。月次祭度には必ずお参りするようになりました。それまでは父の信心というのは、反対はせんけれどもお参りはせんという程度でした。
 やっぱり私はその身から打ち込んだ信心に、やはりついて来なければおられなかったんだと思います。いや毎日朝参りをしよる日参をしよると、いうだけではその身から打ち込んだという事には、ならんのじゃないでしょうか。もう本当にその身から打ち込んだ信心。これはどこからどこまでが打ち込んだという事が分かりませんけれども、いうならば私が一生懸命信心しよるとに、反対はせんという程度の事ではいけませんね。又それに反発するようなら尚更いけないけれども。
 、そこに自分の信心のその身から打ち込んだという、内容を検討してみなければいけないと思うですね。まぁ手立てとして、あれは大阪の阿倍野の御信者さん方の一つの傾向というですか。というのは結局主人がお参りをするなら家内に頼む、家内が信心しよるなら主人に子供に頼む、社長が信心しよるならば社員に頼む。そしてそのう参ってだからもう一家で十人も二十人も、大きな会社の場合なんかはお参りがあるというから、とにかく朝参りが千人というからね大した事です。
 一人が参るとそれに沢山、いうならば分らんなりにでも社長が頼むから、参らんならんというようにして参る。まあこれは阿倍野の一つのお徳でしょうけれども、なかなか真似の出来ない事ですけれども、それが皆んなおかげ頂いていく。初めは付け焼き刃、いうならばいわれるから、しょうことなしにお参りしよっても、段々銘々にも難儀な事や困った事が起こって参りますと、それをお願いをお取次ぎを頂く。まぁおかげを頂くだからそれも一緒に信心になっていく。
 会社の事をいうならば社員が一同になってお願いをする。いついつまでの手形が、といったような時なんかは皆んなその社員全部でお願いをする。そういうまぁ手立てもあるわけですよね。けれども私は社員に頼む家内に子供に頼む。この姿勢が大体素晴らしいのじゃないか、又その身から打ち込んでいる姿じゃなかろうかと思いますね。その身から打ち込んでという事はね、それはどこからどこまでが打ち込んだという事は分かりませんけれども、結局自分の周囲に周辺の者が。
 特に関係の濃いものがついてくるだけの信心をもって、その身から打ち込んだ信心ということになるのじゃないだろうか。ついてくる者はただそのいわれたから付け焼き刃的であっても、付け焼き刃的な信心の中から、又おかげを受けて本当のものになっていったらね、勢を揃えた信心ねという事になりませんと、本当のいわゆる家庭の上でも、本当の家庭の和という事にはなってこないのじゃないでしょうか。勢を揃えた信心。なるほど一人で持ちあがらぬ石でも、多勢掛け声を揃えてといわれる。
 そういう実証を自分の家庭に見たい、そういう実証を家庭の中に頂きたい。頼むという事はお前も参らんかじゃない。やっぱり本当に頼むという姿勢がいる。社長さんがいうならば社員達に頼む。普通ではやっぱ出来ない事かも知れませんね。同時に又いよいよなら私がもういよいよ打ち込んで参りましたら、その打ち込んでいる姿にはやはり家族中の者が付いて来ずにはおられなかった、家族中の者が祈った。一緒に修行させて頂いた。そしていうならば椛目で人が助かるようになった。
 そういう働きともなって来るその芯は、やはり私のその身から打ち込んだ信心にあったと思うのです。自分達毎日日参しよりますというだけではなくて、その毎日の日参まぁこれより上はないというものではなくて、その内容を改めて検討してね、勢の揃えられた一家中がね、会社中がこりゃしかしそういうんなら信者ちゅうのは珍しい滅多にない。また会社があげて信心するちいうような事も滅多にない。けれども滅多にないような、私は信心にお互いがならせて頂くことを目指しておかげを頂いて。
 それこそ滅多にないようなおかげもおかげ。あの会社はもう金光様で固まっとるというような、ひとつの信心理想というものを持たなければいけない。だからその為の一つ修行でもさせてもらうね。ただ家族の者が反対はせんじゃなくて、もう本当にあの皆んなが打ち込んででなかったら勢を揃えて、ただね大きな重い物にしがみついとるちいうだけではつまらん。やっぱそれに力を合わせなければ、力がなからなければ力は揃わない。なんかそういうね信心のまぁ願いというかね。
 を持たせて頂いて一家中でどんな事でも勢を揃えて信心が出ける。昨日四時の御祈念の時だったかちょっと前だったでしょうか、鞍手の柴田さんが娘と息子を連れてお参りになった。昨日あちらの共励会なんです。息子さんの上にまぁいうなら難儀な問題が起こって来た。その事を聞いた途端に「おかげ頂いたの」ちいうちから息子にいうたち。そして息子さんがいわれる事が、おそらく昨日も今日も暫く合楽で修行したいというので、あの「僕はいっときばっかり合楽で修行する」とね。
 もう本当にそういう事になって来たら、いよいよそれを聞いた瞬間「良かったの」といったという事が有り難いなというて、もう「柴田さんそれだけであんたの信心が良かばい」というて私は昨日は申しました事でしたがね、やはりその身から打ち込んでいなければそん時に、そりゃあどうするかといったような事にもなりかねないですけれどもね。そりゃもうおかげと実感出けれる信心。柴田さんがその身からいかに打ち込んでおられるかと、月次祭たんびんにあれだけ沢山な人をそれこそ導いて。
 だから鞍手地区の事は一丸になって祈る。もう一緒にお導きした方達の事でも皆んな一緒になって願われるです。息子さんは勿論信心はないけれども、一途な信心にいよいよ自分が、さぁ右か左か難儀な問題にそのうさし当たって困ったと、右にしてよいやら左にしてよいやら分からん時に、母親の信心に心が向いた。そして暫くなら教会で修行でもさして貰おうかといった様な心さえ、子供にいつの間にか与えておったという事になるのじゃないでしょうか。勿論それを聞いた瞬間、そりゃあどうするのといわずに。
 「そりゃおかげ頂いたばい」というて、 あぁいうタイプの方ですからそういうふうにいわれたというて、昨日ここでお届けがありました。そういう所から今まで見向きもしなかった子供達も、やはり親の信心についてくる。いやついてこずにはおられないといったような事になってくるんじゃないかと思うです。とにかくその身から打ち込んだ信心には、いうならば必ず、いうならば自分の家族の者があげて、信心になるという確信を持てるような、いうならば打ち込み方でなからなければいけないという事ですね。
   どうぞ。